頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛法

頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛方法

薄毛でお悩みの方を救済する「頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛方法」約30年間薄毛と共に生きてきましたが、ある情報がきっかけで結構改善されました。正直もう完全に諦めていたのに、61歳にしてまさか生えて来るとは本当に想定外。おかげさまで副作用も全く無くどこまで復活するか、これからが楽しみです。

プロ野球列伝 衣笠祥雄さん

皆さん、こんばんは。

薄毛治療放置歴30年の超ベテラン、

7月7日七夕生まれの

ミスターヒコボシです。

 

本日は、プロ野球の連続試合出場日本記録保持者で、「鉄人」の愛称を持つ、

広島東洋カープ.黄金時代の赤ヘル打線の主砲だった、衣笠祥雄さんの登場です!

 

 

プロフィール

 

 

平安高等学校(現:龍谷大平安高等学校)出身

右投 右打 三塁手 一塁手

生年月日 1947年1月18日

身長 175cm

体重 73kg

血液型 O型

 

 

経歴

 

 

★幼少期

※日本に駐留中だった進駐軍の兵士(アフリカ系アメリカ人)の父親と、

日本人の母親との間に生まれた。

 

※幼い頃は、京都の母方の祖父によって育てられた。

 

★小学校時代

※小学校3年生から、母親と母親の再婚相手と一緒に

暮らし始める様になった。

 

※再婚相手の義父は、電気工事の現場監督をし、母親は、保育園の給食係を

していたが、経済的には恵まれず、6畳一間に4人で暮らしていた。

 

※衣笠さんも、家計を助ける為に、新聞配達をやっていた。

 

京都市立洛東中学校

※入学当初、柔道部に入部しようと思っていたが、この中学に柔道部がなく、

仕方なく野球部の練習を観に行くと、打つのが面白そうだったので、

野球部に入部することに決めた。

 

※野球の経験が皆無だったので、最初のうちは練習についていくのが

精一杯で、大変だった。

 

※華やかそうに見えた、ショートのポジションを希望していたが、

最初の練習で、トンネルばかりするので、みんながやりたがらない、

キャッチャーをやらされることになった。

 

平安高等学校

※高校3年の時、4番キャッチャーとして甲子園大会に

春夏連続出場を果たし、いずれの大会もベスト8だった。

 

※卒業後の進路について、両親は大学進学を強く勧め、プロ入りには

反対だったが、早く自立したかったので、プロ入りを決意した。

 

※卒業後、プロ入りしてから、学校とずいぶん離れた、

野球専用グラウンドの間を野球部の選手を乗せて走る送迎用の大型バスが、

老朽化した時に、新車の大型バスを寄贈した。

 

 

太っ腹~!(笑)。

 

 

広島東洋カープ入団

 

 

★1965年

広島東洋カープに入団し、白石勝巳監督の意向で、キャッチャーから、

内野手にコンバートされた。

 

★1968年

ファーストとしてレギュラーに定着し、

打率276、本塁打21本、打点58の成績を残した。

 

★1975年

※新任のジョー・ルーツ監督に要請されて入団した、助っ人外国人、

ゲイル・ホプキンスがファーストのポジションを希望したため、

チーム内に微妙な空気が流れた。

 

※ジョー・ルーツ監督はホプキンスの意向には全く触れず

「ウチには、巨人の長嶋茂雄を超えるサードがいる。」と

衣笠さんをうまくおだてて(笑)、三塁手にコンバートした。

 

※ホプキンスといえば、医者を目指していた「秀才助っ人」という

評判だったと、かすかに記憶に残っていましたが、調べてみますと、

やはり現役引退後、シカゴのラッシュ医科大学に再入学し、

整形外科医になった様です。

 

★1976年

打率299(惜しい!)、本塁打26本、打点69の成績に加え、

 盗塁数31で盗塁王のタイトルに輝いた。

 

★1980年

8月2日の対巨人戦で、飯田徳活さんが保持していた1246試合の

連続試合出場記録を抜く1247試合を達成した。

 

★1982年

12年連続全試合出場という超人的な記録を達成し、王貞治さんが

保持していた11年連続全試合出場記録を塗り替えた。

 

★1983年

8月9日に行なわれた対阪神タイガース戦の試合で、史上16人目となる、

プロ通算2000本安打を記録し、晴れて日本プロ野球名球会の会員となった。

 

★1984年

※打率329、本塁打31本、打点102と37歳にして

キャリアハイの成績を残し、打点王のタイトルを獲得した。

 

※チームはシーズン75勝45敗10分、勝率625の堂々の成績で、

4年ぶり4度目のリーグ優勝を果たした。

 

日本シリーズも、上田利治監督率いる阪急ブレーブスを、

古葉竹識監督率いる広島カープが4勝3敗で下し、

4年ぶり3度目の日本一に輝いた。

 

衣笠祥雄さんは、この広島カープ最高の年に、

見事MVPに輝いた。

 

★1987年

6月22日プロ野球選手として、王貞治さんに次いで、

2人目の国民栄誉賞を授与された。

 

ダンディ

 

衣笠さんは身長175cmと、プロ野球選手としては

決して大きい方ではなく、むしろ小柄な部類に入りますが、

常にパワフルで豪快なフルスイングで、相手投手に向かっていき、

どんなにスランプに陥っても、バットに当てに行く様な、

消極的なバッティングは絶対にしませんでした。

 

ピッチャーにとっては、一番厄介で嫌なタイプのバッターの典型で、

当然、体勢を崩すために厳しいボールを多投することになり、

通算被死球も161と、日本プロ野球史上3位の多さでした。

 

衣笠さんの本当に凄い所は、その豪快なフルスイング以上に、どんなに

危険で強烈に 痛い死球を受けても、絶対に怒らずに、

「いいよ、大丈夫だから。」と逆に恐縮している相手投手を気遣いながら、

一塁へと向かっていく事でした。

 

衣笠さんは危ない球の避け方も非常に上手かったので、

普通の選手なら大ケガしてもおかしくない様なビーンボールでも、

体をうまく反らして、尻もちをつきながら避けて、肩にかする程度の

デッドボールに済ましてしまう様な技術も持っていました。

 

ピッチャーを睨み付けて、何か一言、言いたくなる様な、本当に

危険な球でも、そうやってうまく避けて、何事もなかったかの様に

顔色一つ変えず、腰のあたりについた砂を手でサッサッと払い、

右手を高く上げてピッチャー方向に向け「大丈夫だよ。」といった

ポーズで、悠々と一塁へと向かう姿はダンディそのものでした。

 

そんなダンディな衣笠さんも、2018年4月23日、奇しくも

41歳になる息子さんの誕生日に、上行結腸ガンの為、

東京都内で亡くなられました。71歳でした。

 

「後は任せたよ。」という、息子さんへのメッセージだったのかも知れません。

 

心よりご冥福をお祈りいたします。

 

では、今日のところはこの辺で。

 

また次回、元気でお会いしましょう。