頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛法

頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛方法

薄毛でお悩みの方を救済する「頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛方法」約30年間薄毛と共に生きてきましたが、ある情報がきっかけで結構改善されました。正直もう完全に諦めていたのに、61歳にしてまさか生えて来るとは本当に想定外。おかげさまで副作用も全く無くどこまで復活するか、これからが楽しみです。

プロ野球列伝 落合博満さん

皆さん、こんばんは。

薄毛治療放置歴30年の超ベテラン、

7月7日七夕生まれの、

ミスターヒコボシです。

 

めっきり寒くなりましたが、皆さん

いかがお過ごしでしょうか?

 

寒いのが苦手な私ですが、何故か

年末年始の雰囲気が、一年で一番好きな時期です。

 

今年も残すところ、後一ヶ月あまり・・・。

歳と共に、本当に一年が早く過ぎ去ってしまい、

残りの人生、しっかり生きねばと、柄にもなく

思ってしまう今日この頃です。

 

小学校の6年間の長さは何だったんでしょうね(笑)。

 

前置きが長くなってしまいました。

 

改めまして、本日は前人未到

日本プロ野球史上唯一となる、
3度も三冠王に輝いた天才打者、
落合博満さんの登場です!
 

プロフィール

 
 
右投右打 一塁手三塁手二塁手
生年月日 1953年12月9日
身長 178㎝
体重 82Kg
血液型 O型
 

経歴

 
 
立鵜木小学校
※7人兄弟の末っ子で和菓子屋を経営していた母親は仕事が忙しかったので、
兄姉によく面倒を見てもらい育った。
 
※廃棄前の農具の柄の部分を自分で器用に
削って、専用のバットを作っていた。
 
長嶋茂雄さんに憧れ、兄の影響も受けて、
小4の時、地元の野球チームに入り、
エースとして活躍した。
 
※長嶋さんのバッティングフォームを
雑誌などを見て、よく真似をしていた。
 
※野球が大好きで、学校にはバットと弁当だけしか持って行かなかった。
 
※放課後、早く野球をやりたかったので、
宿題は授業中に終わらせて、毎日2キロ以上
家まで走って帰った。
 
※宿題以外、全く勉強しなかったが、
成績は良かった。
 
※気性が荒く、売られたケンカは必ず買い、
相手の耳に噛み付いて、病院送りに
した事もあった。
 
秋田県南秋田郡若美町立潟西中学校
※野球部に所属し、1年生からエースで
4番だった。
 
※映画が大好きで、年間100本ぐらい
観賞していた。
 
※野球が大好きで、技能にも自信があったが、体育会系の風習を嫌い、
甲子園常連校を避け、秋田工業を選択して野球部に入部した。
 
※野球部に入部してみると、予想外に体育会系の風習が蔓延しており、
先輩からの理不尽なしごきに納得出来ず、早々に退部した。
 
※野球部退部後は、映画館通いが続いたが、
野球の実力は、周りの誰もが認める所で、
試合が近づくと、部員たちに説得され、一時的に入部し、
ほとんど練習もせずに4番を打っていた。
 
※結局、卒業迄に野球部の入退部を7回繰り返した。
 
東洋大学に入学後、野球部に入部したが、
やはりここにもあった、体育会系の風習に馴染めず、
肉離れのケガもあって、わずか半年で野球部を退部し、
大学も中退してしまう。
 
※大学中退後、秋田に戻るまで約2週間、
上野公園や日比谷公園で野宿生活を経験した。
 
※秋田に帰りボウリング場でアルバイトをしているうちに、
ボウリングに目覚め、プロテストを志す。
 
※アベレージ280以上という実力を身につけたが、
交通違反の罰金で、手元のお金がなくなり、受験料を
払えなくなり、ボウリングのプロテストの受験を断念した。
 
★1974年
東京芝浦電気に、高校時代の恩師の勧めもあり、
府中工場の臨時工として入社した。
 
※府中工場の社会人野球チームである東芝府中の野球部に所属し、
5年間で約70本塁打を放ち活躍した。
 
★1976年
東芝府中の中心打者として、創部23年目で初の
都市対抗野球出場に導いた。
 
★1977年
阪神タイガースから、この年のドラフト会議で指名する旨
伝えられたが、結局指名されなかった。
 
何をしているのですか~ 阪神さ~ん(笑)。
 
★1978年
※第25回アマチュア野球世界選手権に、日本代表として選出された。
 
※ドラフト会議でロッテから3位指名された。
この年の12月で25歳という、当時としては、
かなり遅いプロ入りとなった。
 
★1979年
入団した年は、アッパースウィング気味のバッティングフォームの
矯正に悩み、打率234、打点7、本塁打2本の成績に終わった。
 
★1980年
2軍で5試合連続ホームランというイースタン・リーグ記録を作り、
シーズン後半から1軍に復帰し、57試合で15本塁打を放った。
 
★1981年
※打率326で、初の首位打者に輝いた。
 
オールスターゲームに初出場を果たし、パ・リーグの4番打者を務めた。
 
★1982年
打率325、打点99、本塁打32本の成績を残し、
史上最年少の28歳で三冠王に輝いた。
 
★1983年
チームは球団初の最下位という結果だったが、
打率322で、3年連続で首位打者を獲得した。
 
★1985年
※打率367、打点146、本塁打52本という
驚異的な成績で、2度目の三冠王に輝いた。
 
※打率367は右打者の、当時の歴代最高打率記録で、
52本のホームランは、当時のパ・リーグタイ記録、
打点146は、今もなお、パ・リーグ記録である。
 
★1986年
※打率360、打点116、本塁打50本で、
2年連続3度目の三冠王に輝く。
 
※2年連続50本塁打以上は、プロ野球史上初である。
 

オレ流を貫く

 
1987年以降、中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ
日本ハムファイターズと渡り歩き、現役生活20年で
通算打率311、510本塁打、1564打点という
偉大な成績を残し、1998年、45歳を迎える年に
現役を引退しました。
 
卓越した野球理論を持ち、中日の監督として、
2004年から2011年まで、8年間指揮を取り、
全ての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝、
1度の日本一も達成し「名選手名監督にならず」という邪推を、
オレ流を貫いた采配で、見事に覆してみせました。
 
落合さんは俗にいう「二兎を追うものは一兎をも得ず」といった
考え方を一切持たず「三兎(打撃部門の三冠タイトル)を得る勢い」で
野球に取り組んだので、三冠王が三度も取れたと言っています。。
 
簡単に真似のできることではありませんが、何ごとに対しても、
常にアグレッシブに挑戦し取り組めば、自ずと道は開けるということだと思います。
 
是非、もう一度ユニフォームを着て、監督として掛布さんと、
対戦して頂きたいものです。
 
以上、オレ流の考えでした(笑)。
 
では、今日のところはこの辺で。
 
風邪など、引きません様に、
 
また次回、元気でお会いしましょう。